2006年5月7日日曜日

可淡


昨今のフィギュアやゴス流行りのせいか、多くの人形作家さんの作品を見る機会が
多いのだけど、残念ながらやはり可淡氏の作品におよぶものに出逢えない。
これがやりたかったんだろうな、とか狙いの主旨は理解しているつもりなんだけど、
どうしてもそればかりが先行してしまっていて、タイトルありき、な。
悪く言えば人形が其処に存在している理由がまったく伝わってこない。
つまり、おいてある人形が見る物をまったく惹き込んでくれない。
それって、dollという作品ジャンルには致命的なんではないのだろうか。

無造作に投げ出されたかのように置かれているその人形の角度一つで、その瞳の光彩や翳り、
頤から耳にかける線で、そこに居る前後のストーリーが幾通りでも彷佛させられる、この時間の経過の
先にあるのが絶望や憂いなのかを予感させるチカラ。
それによって、観る側のイマジネーションに働きかける存在感が
「ブキミだ」「なんか恐い」という単純な表現となっても、それは本物。

最近の作家さんの作品を観るときはなるべくニュートラルな状態でいるよう
勤めてるつもりなんだけど。
ただグロテスクに、突飛でエログロに、縄で縛り逆さにつるし、裸体をやぶる異形や箱詰め。
完成図と固定されたストーリーを描ききっているならもうそれで絵でも描いて
おわりでいいじゃん。とおもってしまうことが多く、グループの展覧会など、
どこで作家が変わっているのかさえ判らないほどうんざりする。

ちょっと言い過ぎ。自分で造れもしないくせに・・・。



東京国立近代美術館工芸館で5月21日まで会期の所蔵作品展。
この5年間で新しく収蔵された作品を中心として展示されている中に吉田良氏の
作品があったため、伺って来た。
天野可淡氏のご主人なわけですが。
硝子ケースの中に四谷シモン氏の作品と並び赤い着物の人形が足を投げ出し俯いている。
しゃがみ込まなくては顔が見えない展示は作者の意図する所なのかは判りかねるけど、
見下ろしたときの前髪の影、しゃがみ込んでカオを覗き込んだときの瞳。
重ねの下、鎖骨の陰影。
見ているこちらの存在さえも煩わしくなる程の繊細さ、美しさ。
小さな頭蓋を両手で包み込み頬や頤を何度もなぞる感覚。
なんの背景やセットも持たないたった一体の人形が放つ空気はツクラレタものでなく、
作家の手から吹き出て来たもの。
欲しい。と思った。


Astral doll