いまや、しゃばでは絶対こんなにじっくり観れない。
お山に登る(バスが)だけの価値あり。
2000年の若冲展以降の新出を多く揃えた展覧会となっている。
その趣きの理由の多くも、図録の解説と後日の講演会で語られることとなる。
この9年の間に、かなり個々の作品を追って(ほとんどは京博でだけど)
改め直して来たけど、まだまだこんなに新鮮な気持ちにさせられるとは。
これは協力者やキュレイターが込めている熱のせいでもあるんだな。
この美術館での他の展覧会を観た事がないのでわからないが、
なにしろ、展示が良い。
作品毎に観覧ポジションの綿密な計算が行われているかの見やすさ。
集中力が増す。
若冲の絵画をこれだけじっくり、1点1点浴びるように鑑賞できたのは、
何年ぶりだろうか。そうだ、動植彩絵の修復完了時以来だなー。
そのうちカルフォルニアへ見に行くしかないか。。と、
3年前に人だかりを前にして諦めた
「鳥獣花木図屏風」(エツコ&ジョウ・プライス・コレクション)を
え、本当にいいんですか?じゃまだったら言って下さいね。
と、ドキドキしながらも舐めるように鑑賞。
本当に1時間に1本しか無いバスに乗ってでも行く価値がある。
狂ってる。
自分の限界を知りたいが為に、限りなく広く続く画材を求めてる。
動植彩絵の「牡丹小禽図」が頭をよぎる。
画面いっぱいに牡丹を描き続け、筆を止める事を忘れた、というより
知らないかのように。
この人の瞳は万物をどう映していたんだろうか。
研究者は実はそれが知りたいが為に、研究を続けているんだと思う。
描きながらもその絵の中に居て、だから200年を経た今も観たものを
その絵の中に引き込む。
その前に立てば、己も白象の元へ集まって来た小さな生き物になる。
鳳凰を敬い、その裾に慕う小禽となる。
こんなに単純化された鳳凰が、なぜにこれほど気高く映るんだろう。
振動もないのに音楽が流れているのがわかる。
その前に経っている間は重力すら感じない。
この男の85年間が放出したものとは200年かけても計り知れない。
もはや本人に語ってもらうしか、コチラに残された時間が足りない。