2010年1月29日金曜日

本日のことば

第五章 芸術観賞

 自然と四季を歌い、高山を歌い、流水を歌えば、その古桐の追憶はすべて呼び起こされた。
再びやわらかい春風はその枝の間に戯れた。
峡谷をおどりながら下ってゆく若い奔流は、蕾の花に向かって笑った。
たちまちきこえるのは夢のごとき、数知れぬ夏の虫の声、雨のばらばらと和らかに落ちる音、
悲し気な郭公の声。
聞け!虎うそぶいて、谷これにこたえている。
秋の曲を奏すれば、物さびしき夜に、剣の如き鋭い月は、霜のおく草葉に輝いている。
冬の曲となれば、行く空に白鳥の群れ渦巻き、霰はぱらぱらと、嬉々として枝を打つ。
 次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。
森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。
空にはつんとした乙女のような冴えた美しい雲が飛んだ。
しかし失望のような黒い長い影を地上にひいて過ぎて行った。
 さらに調べを変えて戦いを歌い、剣戟の響きや駒の蹄の音を歌った。
すると琴中に竜門の暴風雨起こり、竜は電光に乗じ、轟々たる雪崩は山々に鳴り渡った。


 傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。
真の芸術は伯牙であり、我々は竜門の琴である。
美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。
心は心と語る。
無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。
名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。
長く忘れていた追憶はすべて新しい意味を持って帰って来る。
恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現れて来る。
わが心は画家の絵の具を塗る画布である。
その色素はわれわれの感情である。
その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。
われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。



 芸術において、類縁の精神が合一するほど世にも神聖なものはない。
彼は永劫を瞥見するけれども、目には舌なく、言葉をもってその喜びを声に表すことはできない。
彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている。
かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。
これによってこそ傑作は神聖なものとなるのである。

 なお一つ一般に誤っていることは、美術と考古学の混同である。
古物から生ずる崇敬の念は、人間の性質の中で最もよい特性であって、いっそうこれを涵養したいものである。
古の大家は、後世啓発の道を開いたことに対して、当然尊敬を浮くべきである。
彼等は幾世紀の批評を経て、無傷のままわれわれの時代に至り、
今もなお光栄を荷のうているというだけで、われわれは彼等に敬意を表している。
が、もしわれわれが、彼等の偉業を単に年代の古きゆえをもって尊んだとしたならば、それは実におろかなことである。
しかもわれわれは、自己の歴史的同情心が、審美的眼識を無視するままに許している。
美術家が無事に墳墓におさめられると、われわれは賞賛の花を手向けるのである。

同時代美術の要求は、人生の重要な計画において、いかなるものにもこれを無視することはできない。
今日の美術は真にわれわれに属するものである。
これを罵倒するときは、ただ自己を罵倒するのである。
今の世に美術無し、というが、これが責めを負うべきものはたれぞ。
古人に対しては、熱狂的に嘆称するにもかかわらず、自己の可能性にはほとんど注意しないことは恥ずべきことである。
世に認められようとして苦しむ美術家たち、冷たき軽悔の影に逡巡している疲れた人々よ!
などというが、この自己本位の世の中に、われわれは彼等に対してどれほどの鼓舞激励を与えているか。
過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。
未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。
われわれは人生の美しいものを破壊することによって美術を破壊している。
ねがわくは、ある大妖術者が出現して、社会の幹から、
天才の手に触れて初めて鳴り渡る弦をそなえた大琴を作らんことを祈る。

the book of tea / Kakuzo Okakura