2010年2月7日日曜日

ひもとく






 その絵から得たい情報は、本当はいったいなんなんだろう。ただ、絵解き、謎解きも、数値的確たる論拠があれば、あとあと付加価値となってかえってくるけど。

 その切り取られた一瞬が伝えているものを読み取る。その描写に至るプロセス、か、シチュエーションか。
 かつて、画師の筆遣いを追い呼吸を感じようを日がな硝子の前にへばりついた。その画材、依頼主やパトロン、取材と描写方法、画師の交流関係、趣向、風刺、垣間見えるものの読み解き方を教えられ、その羅列が、絵が持つドラマから、その時代の厚みがどんどん立体化して行くのにこころを奪われた。
 絵が秘めるプロセスの情報が多ければ多い程、その絵の求心力は大きい。傑作とうなづかれる所以がそれなんだと思う。

 作者の定義付けによって得られるのは、跳ね上がる取引価格か。。。そう考えれば、工房作に棟梁絵師の落款が押されるのは、単なる認証印。と言い切るのは、落款ないのは棟梁が認めてないボツかってことになるのでそれも危険だけど。(笑)

図録に挟まってた。よくなくなんなかったな。ちょっと嬉しい。


 大作なのに、情報量が少ない事で物議をかもすものも、着想の技術は出色なるをはばからない。しかし、作者を決定づける史料に乏しく、類似する技法との比較で、技術を模倣したどこぞの誰かが描いた稚拙なもの。と作品ごと全面否定をしてるかの誤解を招きかねない評価のしかたもある。護符もガチガチには張られれば抗いたくもなるもの。
 若冲の枡目画3点には既にそれぞれの定評がつきつつある。「白象群獣図」は3印が捺された紙が貼られており、留まる事の無い表現の巧みさに首を縦に振らない人はほぼいないと思われる。静岡県美「樹花鳥獣図屏風」こちらも真筆もしくは下絵とプロデュースの「工房作」として落ち着きを見せている。
 オーナーが真筆とはばからない「鳥獣花木図屏風」、一部の「無関係」説とオーナーの「自信」を措いて、「工房作」でいいんじゃないかー?というものすごくゆるーいスタンス。もはや、海外にいってしまった遠い「ヒト」であって、オーナーの寵愛は間違いない。当面は目くじら立てて追っかけ回してもしょうがない存在。火種となるのを予感して辻先生はあえてプライス氏にこの屏風を引き合わせたのだろうか。笑。当時、国費で買い上げる力がなかったこの国から、得体の知れない外国人に引き渡され、一双が散逸する憂き目を避ける事が出来た。それを何度も帰国公開させ、自身も老体鞭打ち来日しては、日本の湿った空気に触れてなお、艶やかな姿を見せる屏風を堪能する。おかげでこちらもこの10年、何回もお目にかかる事ができている。
 確かに3作品はそれぞれが論議を尽くすに足る個性を持ち合わせている。幕末明治期の日本画家が模索した過程のように、それぞれが、一人の画家の試みのうちであったとしても遜色無いという理解はできないのだろうか。魂が筆を拠り所に表現している世界は否定しようがない。